2009年4月6日月曜日

天才になれなくて

新年度になってもうすぐ一週間。
修士論文の直しとか基礎勉強とかしたいのに、
専攻の雑用とか研究室の雑用とか学会の雑用とか
デスク周りの模様替えとか家の大掃除とかあって
まだ本格的に研究活動に勤しめていません。

まあでも何事も環境からですよね。
掃除ができない人間は何も上手くできないと言われるように。
研究室のPC、Dell社のOPTIPLEX GX520で
デュアルモニタを試そうかと思ったのですが、
ビデオカードはデュアル対応なのにもかかわらず
入力端子口がVGA一つしかなくて、
結局ビデオカード取り付けかVGA-USB変換コネクタが必要という
落ちだということがわかってちょっとゲンナリしています。

最近寝る前1時間ではてブホットエントリを見るのが習慣化してきました。
本日はこちらを見てのちょっとした感想を。

 天才になれる秘密-teruyastarはかく語りき

要は過去の“名作”を“コピー”することによって人間は“天才”になれる、
ということを言いたいんですよね。
何もないゼロの状態からものを考えて、
出来上がった“作品”が世の中に認められることは
“まずない”と言っていいと。
そしてこの考え方は初等・中等・高等教育では
むしろタブーとされており、
我々はゼロの状態から自ら考えるという訓練、
いわゆる“テスト”を積んできた。

だけど社会に転がっている問題はこういうアプローチでは
なかなか成功をつかむことができない。
ゼロからじっくり考えて間に合うほど
問題は単純じゃないってことですね。
そんなことしている間に、ほかの人に出し抜かれてしまう、ってことですね。

この考え方には心の底から同意の気持ちを抱きます。
この気持ちは昨年の私の経験に基づくものです。

昨年1年間、私は修士論文の作成に多くの時間を費やしたわけですが、
最も時間がかかったのが数値計算モデルの作成でした。
実際、先輩の財産として自分が組むべき
モデルの一部分はすでに完成していたのですが、
私は1からコードを書くことに挑戦しました。

その結果、ゼミで発表するたびに教授から酷評をいただき、
意固地になって亜流でこなそうとする姿勢を叱責されてしまいました。
当時の私は、そのぐらい0から自分でできるくらいの才能がないと
研究者として到底生き残っていけない、とも思っていましたし、
サルバドール・ダリの名言
 「天才
になるには天才のふりをすればいい」
を座右の銘として抱いていたので、
自分は天才だから参照が無くても絶対にできる、
という根拠のない自信を抱いていたりしていました。

その自信が空回りしてしまい、
そこから自信喪失につながっていったという苦い経験を持っています。

この経験をしたおかげか、ようやく最近になって、過去の偉人たちの遺産、
いわゆる“古典”の価値を本心から認められるようになりました。
また、このエントリを読んだことで、
天才とは他者との共存の中で初めて社会的に成立するものだ、
ということがわかったような気がします。
つまり天才になるには名作をもっと吸収する必要がある、ってことですかね。
若いうちにやっとかなきゃ、ですね。