2008年5月22日木曜日

褒めることについてちょっとだけ考えてみた

riywo氏のUst聞いて個人的に思ったこと。ちなみに文章が論理的につながっていないのはご容赦ください。

まずはちょっと事情があって最初の15分くらい聞くことができませんでした。サーセン

今回のテーマはいかにして人を褒めるかと褒めることの重要性についてということでしたが、自分も最近褒めることがいかに大切かを思い知るような経験をしたので非常に興味深い内容でした。

褒める機会というのはリアルコミュニケーションの場面に多く、人を面と向かって褒めるのはriywo氏同様、私も苦手です。一年前に研究室の同期と3対3で合コンしたときには話も人を褒めるのもうまいやつがいて、そのときは完全にそいつのペースに飲み込まれてしまったという経験があるので、その劣等感は強く感じています。まあ、そいつが下心を持っていたのかどうかは別問題です。

~人の何を褒めたらいいのか?~
褒めることの重要性にはあえて言及する必要もないと思いますが、相手も自分も気持ちよくなることができ、仕事への意欲が向上し、さらには相手に対する観察力がつき、褒め言葉をうまく相手に伝えようと努力することによってボキャブラリーが必然的に増える、というメリットがあるようです。では、褒めるといっても具体的に何を褒めることが一番重要なんでしょうね。
確か誰かの言説で、「ある人が何者であるか、いわばその人間の存在価値はその個体が行った社会的活動をもって決定される」というのがあったように思うのですが、もし「褒める」という行為自体の意味が「相手の社会的存在意義を高める」という部分にあるのであれば、人の内面・性格や見た目・外見を褒めることよりも人が行った行為あるいは成果を褒めてあげることの方が大事だということになると思います。それは直接的に成果を褒めてあげたり、出された成果をもとにその人の能力を認めてあげたりすることが重要かつ効果的なのではないでしょうか。

~褒める力をつけるためには何から始めればいいのか?~
でもいきなり本人を前にして成果・能力を褒めるのは恥ずかしいし、そういう場だとかえって自分の言いたいことを100%伝えられられないもどかしさが気にかかってしまう。でもって、頭の中のどこかでは「うまく褒められなくて逆効果になってしまったらどうしよう」と思っている。しかしそうやって言い訳して褒める場を失っていては、茂木先生の言うところの「褒めのアスリート」にはいつまでたってもなることができないですよね。だからまず褒めることに慣れていないうちは本人が介在していない場でその人の成果や能力を褒めてみることから始めたらいいのかな、と思うんです。例えば書評をブログ上に書くということも褒めることに変わりはないわけで、それだと割と気軽にできる。身近な人に「あの人はすごい」という話をすることも十分効果がある用に思えます。

~つい人を貶してしまうのはなぜだろう?~
身近な人であれば褒めるのも簡単でしょうし、むしろ貶すことの方がよっぽど難しいと思われます。しかし相手が自分とはあまり関係のない人であれば貶しても自分にとって損害はないと思い、簡単にバッシングしてしまうことができてしまいます。特にマスコミなどは、誰かをバッシングすることによって損害を被ることはほとんど無いと考えているからあのように政治家や犯罪者をたたくことができるのでしょう。
また、自分の存在価値を顕示するのについ他人を貶してしまうことがよくあります。これは私の最近の経験談ですが、学振の提出書類で自分の研究の背景を書いていたとき、自分の研究のオリジナリティを際だたせるために、これまでに行われてきた研究の流れのどこかしらに欠点を見出す必要がありました。そこで私は前人の研究をほとんど真っ向から否定し、欠点を羅列した形で背景を書きあげました。その文章を教授に見てもらったところ、これまでの研究のよい点を列挙し、さらに自分の研究の良いところを付け足すような形に書き直すよう命令されてしまいました。
つまり自分を認めてほしいから、そして自分は傷つきたくないから適当な他人を叩くことによって存在価値を得ようとする。それが結局手っ取り早い手段と言うことなのでしょう。「他人を褒める→相手をいい気分にさせる→自分への見返りを待つ」というプロセスはあまりにも時間がかかるように思えて回りくどい。長期的な利益を考えたら間違いなく褒めた方が絶対得になるはず、ということはおそらく誰しも気づくことができると思うのですが、それをやらないのは自己顕示欲を即座に満たしたいという気持ちがあるからなのではないでしょうか。(たぶん人を貶す理由はそれだけではないと思いますが・・・)

~褒める力のトレーニング~
というわけで、褒める力を身につけるために具体的に何をすればよいか、PHP研究所『ほめ言葉ワークブック』の中に書かれていた実践法の中から自分がやろうとしていることをちょっと記録しておきます。
●イメージトレーニングをする
 暇な時間、例えば歩いている時に、ふと頭の中に浮かんだ人を褒めてみる。あるいはその人に感謝の言葉をかけるとしたらなんて言うかな~と妄想してみると意外に今まで気づかなかったその人の良さが発見できたりします。
●日常的にポジティブな言葉を使う
 ふだんからネガティブな言葉を多用していると褒めるときも無理に褒めようとしてしまうため、つい嫌みになったり褒めているつもりなのに相手を傷つけてしまったりしてしまうそうです。常日頃から前向きな言葉を使い、前向きな考え方をすることで褒めることへの後ろめたさを無くすことができるようです。
●未来と可能性にフォーカスする
 行動や成果がどんなに無様なものであったとしても、それを「改善の余地がある」という観点から未来志向的にポジティブに捉えることは可能なはずです。

適当に思い浮かんだことを並べただけなのでなんだかまとまりのない文章になってしまいました。しばらく「褒める」ということについて研究し、考えてみたいと思います。また考えがまとまったら書くことにいたします。

ちなみに10冊同時読みは私にとってさすがに無謀な挑戦でした。まずは3冊同時読みくらいからやり直したいと思います。

2008年5月14日水曜日

強者の論理

今日はゼミに出席しようと思っていたら朝から大降りの雨と芳しくない体調のせいで出る気をなくしたので朝から登校ならぬ投稿してまいます。

昨今のニュースを見ていて思います。
こんなのもしかしたら当たり前のことなのかもしれないしはたまた完全に的外れのことなのかもしれませんが、マスコミは「強者の論理」を軸に報道していることが非常に多いような気がします。

例えば道路特定財源化問題。
あれは一見すると自民党衆議院議員という「強者」が法案を押し通しているようにも見えます。
マスコミはこぞって、「道路族と呼ばれる人たちが国民全体の利益を考えず、無駄な道路建設に税金から費用を捻出しようというとしている」として、あたかも「弱者の国民」の味方“的”な立場から報道をしています。
しかし個人的には構図は逆のような気がします。
明らかにこの問題の本質は地方切捨てを是とするか否か、という部分にあります。
要は強者は「都市在住の国民」、弱者は「地方在住の国民」という構図なので、国民の大半を占める都市在住の国民としての立場から「採算の取れない道路は作るな」と言い切ることこそ強者の論理です。
採算の取れないことはやるな、という数字上の論理は極論を言えばボランティアを否定することと同じなのではないでしょうか。

まあこれは自分が農学部で培ってきた価値観からの主観なのですが、地方切捨てを断行していては農村の荒廃は進むばかりで、日本の食糧自給率の回復など到底無理です。
おそらくこういったマスコミの論理に踊らされている連中の中には食品安全の報道にも踊らされて、国産食品信仰をしている人らも多数いるんじゃないかと思います。
そのような人の形をした抜け殻どもに言いたい。
お前らが食っている飯は一体どこから運ばれてきてるのかわかってんのか!、と。

話がそれてしまいましたが、他にも強者の論理が働いていると感じるニュース(自分が興味あるもの)をあげておきます。
「地球温暖化+バイオエタノール」・・・絶対に強者アメリカの論理。経済維持のためのエネルギー源確保のための“問題”。
「いわゆるニート・フリーター問題」・・・既得権者による論理が働いている。求職者を年功序列制度の弊害でもってはじき出すのを今すぐやめるべき。外国人労働者の雇用促進を打ち出す前に派遣社員の能力見直しが必要。

やっぱり日本は国民主権じゃなくマスコミ主権なんでしょうか。

とりあえず近況

とりあえず近況報告。

学振の申請書が今週末提出なのでそれに向けて先週一週間は構想を練りに練ってました。
一応考えはまとまったのですが、明日かあさってに教授に見せたら大幅な路線変更を指示されそうな予感がします。
先週は通学時間も構想を練っていたのであまり読書していません。
非常に効率の悪い時間の使い方をしてしまったような気がします。
申請書に多くの時間を割いたのは「遣り残したことはない」という自信を自分の中に持ちたかったからなのですが…時間を割くだけではやはり効率よくはいかないものです。
それに引き換え今日の研究室ホームページの更新はなんと効率よかったことか。
でも自分の構想を書面に書くという訓練は絶対に今後必要な能力となるでしょうから、今回は考えをまとめるという意味で非常に良い機会だったのではないかと思います。

当然10冊読みもあんまし進んでません…今週からまた再開します。

2008年5月1日木曜日

研究の目的とは

さて5月にも入り就職活動も終わりを迎える時期。
私は就職活動をほとんどしなかったので実感がわきませんが、
世の就活生は自己分析などして自分自身のアピールに精を出していたことなのでしょう。
私は進学し研究を続けることに宿命と使命を感じていたので、
就職活動もそこそこに進学することを決意しました。

もちろん研究活動そのものが「自分のやりたいこと」であるという部分には確信を持っています。
ただ研究内容自体が本当に自分の一番やりたいことなのかどうか、
という部分にはまだ確信を持つことが出来ていません。

現在自分が行っている研究は「農業の多面的機能」、
平たく言えば「農地が持っている、農業生産以外の面における外部経済性」
の中のひとつである「洪水防止機能」についてであり、
この研究は研究室の先輩がかつて行っていたテーマでありました。

この研究の究極の目的は洪水を予測し未然に防ぐ、といったところにあるのですが、
これはホットな話題でもなければ自分が実際に洪水被害に直面したわけでもないので、
ぶっちゃけて言うと目的達成に対する意義ははっきりと自覚できていない現状です。
そもそも国内での洪水被害がニュースで大きく取り上げられることは近頃ほとんどないように思えるので、
洪水を未然に防ぐ手立てが解明されたとして社会的に本当に役に立つのか疑問が残ります。

ではこの研究自体にどうして価値があるのか、ということについて考えてみたのですが、
恐らくそれは「社会の要請」が背後にあるからだ、という結論に達しました。
たとえば地球温暖化問題だって、もし世間であれだけ騒がれていなければ
「地球温暖化が問題である」ということを前提とした近年の研究熱というものは生まれ得なかったように思います。
ちなみに言っておきますと、私は地球温暖化は一時のブームに過ぎないと確信しています。
(参考文献『ほんとうの環境問題』『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』)

洪水緩和も似たようなものです。
実際にこの研究の意義も「誰かがそれを問題視したから」という前提が多かれ少なかれ背後に潜んでいるように思えます。
そう考えると、「自分は見えないものによって研究をさせられている」という感覚を拭い去ることはできず、
自分のやりたいことを主体的にやっているという自信を喪失しかねません。
ただ、研究の意義の重心を「新たな知の創造」という方向にシフトすると、
とたんに研究することの意味が現れて、「自分はやりたいことをやっている」という実感が持てるような気がします。

従って今は、目的ありきの研究ではなく、
単にその過程そのものや、最終的に得られる「理」を楽しむための研究をやっているつもりです。
ただ自分は最終的には「食糧問題」に結びつくような研究をしたいとも思っているので
将来的に何をしようかいろいろと模索している段階ですが、
今は新たなシステムや素材の開発のための研究とは違った醍醐味を味わえています。