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2011年4月4日月曜日

私も川島みなみのように真摯さについて考えてみた


最近、真摯さについて色々と考えることがあったのでここに書き留めておこうかと思う.

今ちょうどNHKで「もし高校野球のマネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」のアニメ版が放映されているところだが、
作中では「真摯さ」というキーワードがストーリーの随所でクローズアップされている.
真摯さとは、目の前の物事に真剣に向きあう態度である、と言っていいと思う.
それは成人するまでの人間の発達段階においては親や先生の言いつけを素直に聞くという態度、ということになるだろうが、
社会的責任を持つ立場になっていくに従い、過去を受け入れ、他者からの批判を受け入れ、
現状を受け入れるという態度という形として複雑化していく.
しかし根本的な姿勢自体は決して高度化するわけではなく、
碇シンジの「逃げちゃダメだ」という思考と本質的に何ら変わりはないと思う.
従って真摯な態度は、子供にも実践可能な簡単なもののように思える.

しかし、この姿勢は一見単純に見えて実は本当に難しい.
特に絶望的な困難に直面し、代替的な選択肢が見えてしまっている場合には
眼前の状況に真摯に向き合うことから逃れてしまいたくなる欲望を抑えることが出来なくなる.
このような状況は、人間の成熟とともに視野が広がり代替選択肢が増えることで起こりやすくなる、
というのが大人にとって真摯な態度というものが困難であると考える所以である.
従って、例えば少年期にはつらい部活の練習を逃げずにやり抜くことができたのにも関わらず、
大人になって頑張り通せなくなる、なんていうことは大いにあり得ると思う.

では、代替選択肢に逃れるのを防ぐために人々はどのような行動をとるか、というと
真摯な態度を持たないとやっていけないような状況を作り、代替選択肢自体を不可能なものに追い込む.
例えば、家庭を作る、社会的に責任を負う立場に立つ、といった行動がそれに該当する.
すなわち社会とのつながりを形成する中で信用や人望などのかけがえのないものを失うことへの恐怖感が
真摯な態度を強化するという仕組みが働いているように思う.
従って真摯さの実践のためには社会的に開かれた存在であることが必要条件なのではないか、と考える.


さて、ここでSteve Jobsがスタンフォード大学の卒業式にてスピーチの締めくくりに述べた有名なフレーズを引用したい.

 "Stay hungry, stay foolish."

このフレーズはもともと、Whole Earth Catalogの背表紙に書かれていたメッセージであるとのことだが、
「空腹であれ、そして愚か者であれ」という意味の込められたこの短文に、
私自身も野心的な部分をくすぐられたことがあった.
周囲からFoolishだと、Idiotだと、Crazyだと評価されても動じない.自分のスタイルを貫く.
貪欲に、そして変わり者として、という生き方にはいまだに憧れを感じている.

しかし、「愚か者」としてあろうとする意識は時に社会から距離をおく、という態度で現れる可能性があるところに危険をはらんでいる.
特に「付和雷同」に代表される日本人の気質を考えると、
この国では社会から逸脱しようとするはみ出し者は集団から排他される可能性が高い.
そして爪弾きにあったものは自分の立場を正当化しようとますます社会から疎遠になり、
この負のループによって「愚か者」はますます真摯でなくなっていく.
"Stay hungry, stay foolish"を糧として生きるのも結構なことだが、
社会に対して正面から向き合う、という基本原則を順守しないと、
その生き方では真の「愚か者」に成り下がってしまう危険があると考える.

従っていい意味での「愚か者」になるためにはまずもって社会に対して真摯でなくてはならない.
すなわち最低限社会的に開かれた存在として振舞わなければならない、と思う.
守・破・離という言葉が表すように、"破"を経験する前段階には"守"のフェーズがある.
新たな道を開拓するためには、その分野に蓄積されている、
進化論的に築きあげられてきた流儀・作法・型を大切にすることがまずもって必要だ、ということだ.
スポーツは走りこみから、数学は計算から、人間関係は挨拶から.
こういった基本的な"型"をステップとすることがその先の領域へ行くための第1歩なのだ.
スラムダンクのバスケの素人桜木、ドラゴンボールの下級サイヤ人悟空が作品中で見せる努力のような、
まさに地道とも言える営みの先に新たな道は見出されていく.


まとめると、我々は自分自身が社会に開かれた存在としてあろう、という意識を持つことによって
真摯な態度を体現することができ、新たな道はその態度の先に拓かれている.
「正直であれ」というのは言うは易く、行うは難しだと思うが、
社会に対しクローズドな態度を徐々に排除していくことによって実直に体現していきたいと思っている.

"Stay hungry, stay foolish, and be honest."


2010年11月10日水曜日

たんじょーび2週間まえ。

うわあああまたしばらく更新してなかったー
って、別に気分が落ち込んでたわけではなくて単にめんどくさい病が発症してただけ。
日々真剣に考えてることの断片は最近twitterの方で発散してます。
特にこのところ気になってるトピックは
  1.農業ってなんだ?どうあるべき?
2.生物多様性ってほんとに大事なの?
  3.大学院って結局何?就職と同次元で語られてることになんか違和感感じるけど。
  4.今シーズンのプロ野球の総括
とかなんとか。

野球シーズンも終わって時間に余裕が出来始めたので
これからぼちぼち更新していこうと思ってます。

2010年3月20日土曜日

だいぶ日がたったようなので

ああ、前回の更新からだいぶ時間がたってしまった。
全く記録を残さないのも良くないと思うのでとりあえず近況を簡単に残しておこう。

あの日以来、すなわち教授に研究室辞めたいといった日以来、
逃げ場が無くなった感から本気で研究に取り組むようになった。
本気で、というのはもう全身全霊をかけて、ってこと。
やっぱり24時間、頭の中のどこかには研究のことがあるような気がする。

最近、数値計算プログラム作るようになったんだけど
ちょっとでもコード間違えると動かないから
もう脳みそフル回転で隅々までチェックしている。
ああ、脳みそってこうやって使うんだな、ってことがようやくわかってきた感じかな。

一研究者としての自覚は芽生えだしたんだけどまだでも走り初め。
しばらくはコンピュータとにらめっこする日が続きそう。

2010年1月23日土曜日

やっぱり途中で投げ出すのはよくないお

先日、研究室辞めたいという愚痴をポストしましたが、
ついに先日、そのことを教授に嘆願しに行く機会がありました。
そこで私はいかに今の研究テーマに自分が馴染めないか、
そして環境を変えたいと思っているかについて
思いのたけを打ち明けたつもり…
だったのですが、結局懐柔されて終わってしまいました。
もしかすると打ち明け方がヘタクソだったために
思いが伝わらなかったという可能性があったのかもしれませんが、
とにかく当初の予定通りとはいきませんでした。
事の経緯を長ったらしく書いてもなんなんで簡潔に要点だけ言います。
(実は推敲中に再起動かかって再編集がめんどくなったからなんて言えないんだじぇ・・・)

若いうちに厳しい環境でやらんとアカンと思った。
          ↓
でもそれって逃げることに他ならないよね。
          ↓    
だけど今やらないと後悔するような希ガス・・・
          ↓
先生、留学が・・・したいです・・・(ミッチーほど真剣ではない口調で)
          ↓
覚悟を決めてやったらどうだ、博士号とったら推薦書書いて留学させてやる。(by教授)
          ↓
仕方ない、腹括るか。自分の目標は博士号とることじゃなくて、
  知を通じて社会貢献することなわけだし、これはまだ通過点と考えよう。

そんな感じで今の研究に全身全霊かけて励む覚悟を決めました。
もう自分の人生かかってるんで並々ならぬ決意ってもんですたい。

で、さて、この状況。
これってまるで入社3年で辞表を提出する社会人と全く同じ構図なんですよね。
たかだか修士課程(=会社の研修期間に相当しますかね~)を終了しただけの人間が
博士課程(=実務期間)に移行するやいなや馴染めないとか自分が発揮できないとか
青二才の分際でほざきやがって(スイマセン、少しガラの悪い言い方になってまいました)
そんでもって辞意を表明してしまう。
今の若いもんは我慢がなっとらん、と大人の方々がくちを揃えておっしゃるのを
私は他人事のように思っていたのですが、
まさか自分が全く同じ状況に陥るとは思っても見ませんでした。

しかし、このことに気付けたからこそ、私はなんとか踏みとどまることができました。
まあ実はあまり実感できてないんですけど、
もしこのままこの研究室で博士号を取ることができて、
2~3年後に留学することができたとしたら、
あああの時踏みとどまっといて良かった、と思える日がきっと来るんだと思っています。
逆にその時を迎えるためにもこれからしっかりやらにゃなりません。

今回の出来事はこんな感じでまとめられますが、
この経験を通じて、途中で投げ出さないことの大切さを、
他人の問題ではなく自分の問題として、改めて考えさせられました。
そこで、もし同じように逃げ出したい、投げ出したいという思いが頭の中によぎったときに
心の支えになってくれそうな3つのエッセイを引用させていただきます。

「なんでこんなことやってんだろ」って思った時に考えて欲しいこと

僕のミッションの1つには会社が儲かる仕組みを作ることがあるはずなのに、最近は  XHTML/CSSのマークアップばっかりやっています。社長の仕事が最優先の為です。とっても苦手な素材作りも見様見真似のFireworksを操りサイトを作り、昨日の自分より少しはマシになったなーと思いながら「こー ゆーことがしたいなぁ」とコーヒー飲みながら思ったりしてます。向いてない、と思っていたことに取り組むのは気が進まないものです。でも振り返ってみると、「これが好きだからやりたい」といったことは何一つ身についていませんでした。必要だからやらざるを得なかったし、やる以上は何らかのアウトプットを出す。その積み重ねでやってきたことは、体が覚えてくれています。
                        ~中略~
スティーブ・ジョブスの有名な卒業祝賀スピーチに「未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだ けなんだ。」という言葉があります。ホントにその通りだなと思います。ただ、何の努力もせず日々を過ごしていては過去を振りかって時に「つなげられるドッ ト」がありません。
                        ~中略~
ただ、やること。その情熱・行為そのものがドットになる日を楽しみに、何とか明日の目標をクリアしていきたいと思います。


「これが好きだからやりたい」といったことは何一つ身についていない、と断言できるところに
敬服の念を抱きます。やはりその時々でやらなきゃいけないことに全力で取り組むことが
成功への第一歩なのだと思いました。


~古田敦也『「優柔決断」のすすめ』

ぼくが考える「優柔決断」は、柔軟に情報を収集した上で、最終的にそれを生かした「決断」をしっかりするということ。いよいよ最後となれば、「やってみなきゃわからない」。そこまできたら、あとはとにかく「やる」勇気を持つことなんです。
                        ~中略~
「優柔」の段階では、ときには大いに迷い、悩み、もがき苦しむこともあるでしょう。それでいっこうにかまわないのです。そのあとでしっかりと「決断」さえできれば、それでいい。



柔軟に情報を収集するというのがいやはやどうも自分には苦手なところなのですが、
とにもかくにも最後にはしっかり腹をくくって「決断」し、いつまでも後悔しない。
逃げる経験をつくるよりはよっぽどマシ、ということなのだと思います。


~小西浩文『生き残る技術』

「目標」と「目的」の錯誤は、間違いなく失敗につながる。「小さな成功はあくまでも通過点に過ぎない」という心構えを常に持っていないと、「心のすき」が生まれ、思わぬアクシデントが引き起こされる。


なるほど。目的、とくに生きる目的は「現在」のもっと先にある。
小さな成功体験もそれを達成できないという悩みも「小さな目標」のためのものでしかないわけだから
派手に喜びすぎず、深く悩みすぎずという姿勢を保つべし。
最後にイチロー選手の名ゼリフ。

小さなことを積み重ねることが、 とんでもないところに行くただひとつの道だと思う。

コツコツ努力する、というのはあまりに陳腐な言葉ではありますが、
かめばかむほど味が出る言葉だと思います。

"今"を"生きる"

2009年12月4日金曜日

明日からゼミ合宿なんだよな。
んで出席者は自己紹介文を書かなきゃいけなかったんだけど
そこにtwitterのIDをさらしてしまったので
そこからたどっていくと
先日の記事を研究室界隈の人に読まれてしまう可能性があるぞよ。
ぐぬぬ。やばいことになるかもしんない。
ゼミの内容を書きたいけどググって
このブログが引っかかると申し訳ないので伏せておきます。

では刺激をいただきに行ってきます。
開催地は… なんと毎日通ってる大学ですorz
ああ、旅に出たい。

2009年4月30日木曜日

改めて自分の考える心の物理法則

以前もブログに書いたことだけど、
また改めて自分へのエールという意味もこめて
自分ルールを書きます。

ニュートンの運動方程式。
力は質量×加速度。
人間は自分を変えようとするとき力を必要とする。
その力は加速度となって現れる。
しかし加速度は距離、すなわち立ち位置に直結しない。
加速度の増加はじっくり時間をかけることで速度の増加となって現れ、
速度の増加はじっくり時間をかけることで距離の増加となって現れる。

一方周りの人間は、
時間を追わない限りその人の加速度とか速度がどのくらいかは判断できない。
つまりその人がどの立ち位置にいるかしかわからない。
その位置をほかの人と比べることによって相対的な優劣を判断する。
それが社会的な評価ってやつだ。

この社会的評価が低くっても憂えることはない。
なかなか社会的評価が上がらなくてもあせる必要はない。
自分の心の力の大きさだけを感じられていれば、
あとは社会的評価なんてものは加速度的に上昇するのだ。
親しい人ならその人の時間的な変化、
つまり心の速度を感じてくれるはず。

だから自分が成長するためには
自分自身の内に秘めた力を自分自身で感じ、
成長する速度を身近な人から感じることが大事。
というのが自分が考える心の物理法則。

ちなみに須藤元気先生の考える心の物理法則は相対性理論に基づく。
エネルギーは質量×光速の二乗。
質量として、つまり形としてアウトプットを出すことによって
そこから莫大なエネルギーが生まれる。
ありがとう、と言い続けたりノートに書き続けたりすることで
感謝の気持ちは何十倍にもなって現れるというもの。
自分の心の中ではそうは思っていないことでも
言葉に出したり紙に書き出したりすることによって、
アウトプットに引っ張っていってもらうというのもひとつの生き方だと思う。

2009年4月6日月曜日

天才になれなくて

新年度になってもうすぐ一週間。
修士論文の直しとか基礎勉強とかしたいのに、
専攻の雑用とか研究室の雑用とか学会の雑用とか
デスク周りの模様替えとか家の大掃除とかあって
まだ本格的に研究活動に勤しめていません。

まあでも何事も環境からですよね。
掃除ができない人間は何も上手くできないと言われるように。
研究室のPC、Dell社のOPTIPLEX GX520で
デュアルモニタを試そうかと思ったのですが、
ビデオカードはデュアル対応なのにもかかわらず
入力端子口がVGA一つしかなくて、
結局ビデオカード取り付けかVGA-USB変換コネクタが必要という
落ちだということがわかってちょっとゲンナリしています。

最近寝る前1時間ではてブホットエントリを見るのが習慣化してきました。
本日はこちらを見てのちょっとした感想を。

 天才になれる秘密-teruyastarはかく語りき

要は過去の“名作”を“コピー”することによって人間は“天才”になれる、
ということを言いたいんですよね。
何もないゼロの状態からものを考えて、
出来上がった“作品”が世の中に認められることは
“まずない”と言っていいと。
そしてこの考え方は初等・中等・高等教育では
むしろタブーとされており、
我々はゼロの状態から自ら考えるという訓練、
いわゆる“テスト”を積んできた。

だけど社会に転がっている問題はこういうアプローチでは
なかなか成功をつかむことができない。
ゼロからじっくり考えて間に合うほど
問題は単純じゃないってことですね。
そんなことしている間に、ほかの人に出し抜かれてしまう、ってことですね。

この考え方には心の底から同意の気持ちを抱きます。
この気持ちは昨年の私の経験に基づくものです。

昨年1年間、私は修士論文の作成に多くの時間を費やしたわけですが、
最も時間がかかったのが数値計算モデルの作成でした。
実際、先輩の財産として自分が組むべき
モデルの一部分はすでに完成していたのですが、
私は1からコードを書くことに挑戦しました。

その結果、ゼミで発表するたびに教授から酷評をいただき、
意固地になって亜流でこなそうとする姿勢を叱責されてしまいました。
当時の私は、そのぐらい0から自分でできるくらいの才能がないと
研究者として到底生き残っていけない、とも思っていましたし、
サルバドール・ダリの名言
 「天才
になるには天才のふりをすればいい」
を座右の銘として抱いていたので、
自分は天才だから参照が無くても絶対にできる、
という根拠のない自信を抱いていたりしていました。

その自信が空回りしてしまい、
そこから自信喪失につながっていったという苦い経験を持っています。

この経験をしたおかげか、ようやく最近になって、過去の偉人たちの遺産、
いわゆる“古典”の価値を本心から認められるようになりました。
また、このエントリを読んだことで、
天才とは他者との共存の中で初めて社会的に成立するものだ、
ということがわかったような気がします。
つまり天才になるには名作をもっと吸収する必要がある、ってことですかね。
若いうちにやっとかなきゃ、ですね。

2009年4月1日水曜日

博士課程1年になりました

4月1日。
私、HidekiTsujiは博士課程1年に学年があがりました。
修士課程をともに歩んだ私の周りの方々は
ほとんどが本日入社式を経験し、社会人となったわけであります。
私の目には「隣の芝生は蒼い」ではないですが、
彼らがとても華々しく見えます。
うらやましいという感覚とは少し違いますが。

私は現実より理想をとり、進学をいたしました。
私は研究の楽しさも分かっていなければ、
専門知識にもまったく乏しい人間だ、という現実が厳然としてあります。
しかし研究を続けていかなくては、という使命感を自分は持っていました。
この使命感を糧に自分の理想像へ一歩でも近づくべく、
茨の道に歩みだそうとしています。

覚悟はできました。
これだけは胸を張って言うことができます。
今年度は貪欲にいきたいと思います。

2009年3月23日月曜日

自分の深層心理に気がついた

今日はかなり自分の本質をさらけ出すような記事を残すことになる。
最近、自分はどういう生き方をしてきたのか、
そしてどうして自分は成長できていないのか、
ずっとそのことで頭がいっぱいだったが、
今日、ふとある一つの、結論ともいえる仮説に気づくことができた。
あるいは気づいてしまった、というべきかもしれない。
というのも、発見したときに得た感覚は快感ではなく、
むしろ恐怖感に近いものだったからだ。
そのいきさつについて、奇しくも修士課程の修了式という一つの区切りを経験した
今日というこの機会にあえてしたためておこうと思う。
ちなみに、こうしてブログ記事として公開するのは、決して人に知ってもらうためではなく、
自分自身の今の気持ち、考えをまとめるためであることを
念のため断っておく。

今現在、私は幸せではない。
客観的には、私を取り巻く環境を見れば非常に恵まれていると思われるので、
こんなこと言うと、「贅沢なこと言うんじゃない」と怒られるかもしれない。
しかし、私は何かに不満を持っているから不幸だ、と言っているわけではない。
心が満たされる感覚を味わえていない、という点を持って幸せではないと表現した。
この世からいなくなりたい、この閉塞的な気持ちから脱却したいと
ここ数ヶ月の間、何度思ったことか。
本当に人生最大の絶望感を味わっている最中である。
この絶望感はかれこれ半年くらいの間続いており、
それは研究そのものや周りとの人間関係がうまくいっていないことに
起因していることはほぼ間違いない。
これまでに、あれこれと具体策を模索してはみたものの状況は改善されず、
一向にこの鬱屈とした状況から抜け出すための、決定的な解決策が浮かんでこなかった。
そこで問題は自分自身の心理にあるのではないかと考え、
修論発表後(1月)、絶望感を味わう原因となった心理状態について考えることにした。

自分自身の精神的な部分の解明は、
これまで哲学的なことについて悩んだことのない自分にとっては容易なことではなかった。
当然、心理学的な知識もほとんど持ち合わせていなかったので、
解明のためにはその道のプロに頼るしかない、ということで
まずは心療内科にかかって診断をしてもらうこととした。
そこで心理テストなるものを受け、自分自身は
 ・強迫的に物事を知性化して処理する傾向がある
 ・外部との接触は冷静沈着というイメージでとらえられがち
 ・内面的には大きなエネルギーを秘めている
という特徴を持っている、という診断結果を受け取った。
確かにこれは自分自身を客観的に分析する手立てにはなったのだが、
核心的なところ、つまり私の心理の真理たるものが何なのかについては
このテストによって知ることが出来なかった。

次に、私は学生相談センターに何度か足を運んでカウンセリングを受けた。
しかしここでは表面的な話、つまり具体的な行動論の話に終始してしまい、
自分の行動に伴う感情について深く話し合うことが出来なかった。
そのため、その場しのぎの安堵感というか幸福感を得るだけで終わってしまい、
結局カウンセリングから数日たつとまた鬱状態にもどってしまう、という状況で
本質的な解決には至らなかった。

やはり自分で解決するしかないのか、と思い、
自分自身とひたすら向き合い、
原因究明を徹底的に行ってみることにした。
そのためには、まず「自分は何のために生きているのか」
という人生観からスタートするのが筋だと考えた。
ちなみに自分の生きる意味は「次世代の人間につなぐこと」。
次世代の人々が快適に生活できる環境を残してあげることが
自分が生きる上での使命だと感じていて、
この考えについては高校2年生あたりからぶれたことはない。
どうやら人生観の部分に原因はなさそうであった。

次に、私は自分にとっての幸せとは何なのか、ということについて考えた。
私は読書家でもなければ哲学者でもないので
過去の偉人たちの考えた「幸福論」については全くわからないが、
恐らく幸せの価値観は人生観そのものに密接に関係しているであろうと考えている。
理由は、ほとんどの人間は幸せになるために生きているから、である。
(こんなこと本当は高校生、遅くとも大学生のうちに考えておくべきものなのだろうが)
すなわち「人生とはなにか」という考えと「幸せとはなにか」という考えは
ほとんど一緒の方向を向いていないと生きていくのが苦痛になってしまう。

周りの人間の行動を「幸福」への欲求という観点から見ると、
たとえば大学を卒業して社会人になる人々は
しっかりお金を稼いで幸せな家庭を築くことに重きを置いているようであったし、
博士課程に進学した人々は研究という作業そのものに楽しみを見出し、
人類の知に貢献するためのプロセスに幸せを感じているようであることに気付いた。

ところで、自分の今現在の行動はどうかというと
「幸福」という観点に基づいていないことに気がついた。
自分が博士課程に進学するのも社会問題(特に自分の場合食糧問題)を解決するために
新たな知を得てアプローチする必要がある、という使命感からであり、
研究が面白いと思ったから、という理由では決してない。
つまり自分の人生観と幸福が一致していないことが鬱の原因であるようにうすうす感じていた。

そして今日、ほぼ確信を持って、
自分が幸福を感じられない原因が何であるかを突き止めることが出来た。
それに気付くことが出来たのは、修了式が終わった後の研究室での食事会が原因である。

研究室での食事会は総勢7名、
うち秘書の方と学生の計2名が女性だった。
男女混合で食事をするとなると、必ずといっていいほど恋愛の話が持ち上がる。
今日の食事会も半分以上が恋愛の話題だった。
ちなみに私は恋愛話が大の苦手、というか大嫌いであり、
人の恋愛観とか全く興味がわかないし、
恋愛テクなどの話題で盛り上がる気になど到底ならない。
そしてそのような話題の場にいると嫌悪感しか沸いてこず、不機嫌になってしまう。
その原因ははっきりしている。
私には生まれてこの方25年間、恋人が出来たことがないからだ。
周りとの人間関係がうまくいかないのも、
自分が恋愛弱者であるという部分が大きく関わっているようにも思える。

当然、私が不機嫌モードを発動してしまったために
食事会は険悪なムードとなってしまったわけであるが、
周りに迷惑をかけてしまったことへの反省の意味も込めて、
食事会が終わった後、私はなぜこれまでに恋愛を経験することが出来なかったのかについて考えた。
正直なところ、恋人が出来そうなタイミングは実際これまでに何回かあった。
しかしそのたびに、自分から恋愛感情を持つ状況に発展することを避けていた。
要はフラグを自分で折っていた。
したがって、私に恋人が出来ない理由は、
自分がチキンであり、恋愛に対して億劫であるためである、とこれまで考えてきた。
今まではそれでよかったのだ。
ところが、ふとある仮説が頭の中に浮かんだとたん、
その原因がただの性格上の問題ではないことがわかり、
さらにその仮説は自分が幸せになれなかったことを
十分説明できるものであることに気がついてしまった。
その仮説は

 「私は幸せになってはいけない人間である」という考えが深層心理として働いている

ということだ。
この仮説を元に考えると自分のほとんどの行動が説明できることに気がついた。
会話で場が盛り上がってくると無意識に場を盛り下げるような行動をとってしまうという癖、
マージャンで初っ端大差で勝っていても局の終わりでは捲くられてしまうところ、
バッティングセンターで一度いい当たりが飛ぶと、その直後はとたんに当たらなくなるという状況等々、
これらはすべて脳や体が「幸せ」である状態を拒否しようとして起こった結果だった。
恋愛に億劫になっていたのも、
自分自身が恋人を持って幸せになることへの罪悪感が原因だったといえる。

そのことに気がつき、確信を持つようになったとたん、
目から涙があふれ出てきて止まらなかった。
それは青春の貴重な時間を無為に過ごしてしまったことへの後悔や無念さ、
周りに迷惑をかけてしまったことへの自責の念、
不幸を自分で勝手に引き寄せてしまっていたことへのやりきれなさなど、
さまざまな負の感情から来る涙であった。
そして心の震えが止まらなかった。

つまりこの深層心理が居座っている限り、自分は貪欲に欲望を持ち続けることが出来ない。
欲望が適って幸せを得てしまうことを脳や体が恐れてしまう。
このことが向上心の途切れ、そしてなかなか成長できない自分をもたらしていたように思う。
そう考えるとげに恐ろしい。
この深層心理をこのまま放っておいたら、私は心の病で殺されてしまいかねない。
自分にとってはガン細胞を発見してしまったような、そんな気分であった。
それに気付いてしばらくは、恐怖と空しさに一人打ちひしがれていた。

この先、私はこの仮説を携えてカウンセリングを受けに行くつもりでいる。
しかしこのような深層心理を持つにいたった原因と考えられる
過去のトラウマなどは全く頭に思い浮かばない。
幸せになる権利があることを確信できるようになるためにはどういう行動をとればいいのか、
あるいは、私は幸せになる権利を得ることが出来るのだろうか。
もしこの仮説が真実ならば、この心理を解決しない限り
本当の意味での向上心も生まれてこないし、幸福も味わうことが出来ないだろう。
心の手術は成功するのだろうか。
とりあえずなんか知らんけどMr.childrenの「くるみ」の2番の歌詞が頭の中をグルグルと回っている。

2008年8月23日土曜日

夏休み終了のお知らせ

明日で夏休みのバイトの全行程が終わる。
まさに時間を金に変えた感じだった。
おかげで資金作りができた。
多分PCが弱ってきているので自作PCにでも当てようかと思う。

最近ブログを更新してなかったけど一応記事を書こうとはしていた。
でもなんだかんだで文章作成中に睡魔に負けて挫折の繰り返し。
そのため下書き記事がすごく溜まっている。


さて、来週は学会なのだ。
一応スライドは作ったし教授からじきじきに手直ししてもらった。
何か今後の人生の運命をにぎる発表になる予感がする。

そして今年の夏休みが終了。
モラトリアム最後の夏とか終わってしまうけどさびしさなど全く無い。
っていうか修士課程までをモラトリアムだと位置づけるのも
そもそも何か間違っている気がする。

今、人生の大きなターニングポイント上にいることをなんとなく自覚している。
果たして自分の居場所はここでいいのか、それを決める大事な時期。
もしかしたら留年するかもしれないし、海外に行くことを決意するかもしれません。

2008年5月22日木曜日

褒めることについてちょっとだけ考えてみた

riywo氏のUst聞いて個人的に思ったこと。ちなみに文章が論理的につながっていないのはご容赦ください。

まずはちょっと事情があって最初の15分くらい聞くことができませんでした。サーセン

今回のテーマはいかにして人を褒めるかと褒めることの重要性についてということでしたが、自分も最近褒めることがいかに大切かを思い知るような経験をしたので非常に興味深い内容でした。

褒める機会というのはリアルコミュニケーションの場面に多く、人を面と向かって褒めるのはriywo氏同様、私も苦手です。一年前に研究室の同期と3対3で合コンしたときには話も人を褒めるのもうまいやつがいて、そのときは完全にそいつのペースに飲み込まれてしまったという経験があるので、その劣等感は強く感じています。まあ、そいつが下心を持っていたのかどうかは別問題です。

~人の何を褒めたらいいのか?~
褒めることの重要性にはあえて言及する必要もないと思いますが、相手も自分も気持ちよくなることができ、仕事への意欲が向上し、さらには相手に対する観察力がつき、褒め言葉をうまく相手に伝えようと努力することによってボキャブラリーが必然的に増える、というメリットがあるようです。では、褒めるといっても具体的に何を褒めることが一番重要なんでしょうね。
確か誰かの言説で、「ある人が何者であるか、いわばその人間の存在価値はその個体が行った社会的活動をもって決定される」というのがあったように思うのですが、もし「褒める」という行為自体の意味が「相手の社会的存在意義を高める」という部分にあるのであれば、人の内面・性格や見た目・外見を褒めることよりも人が行った行為あるいは成果を褒めてあげることの方が大事だということになると思います。それは直接的に成果を褒めてあげたり、出された成果をもとにその人の能力を認めてあげたりすることが重要かつ効果的なのではないでしょうか。

~褒める力をつけるためには何から始めればいいのか?~
でもいきなり本人を前にして成果・能力を褒めるのは恥ずかしいし、そういう場だとかえって自分の言いたいことを100%伝えられられないもどかしさが気にかかってしまう。でもって、頭の中のどこかでは「うまく褒められなくて逆効果になってしまったらどうしよう」と思っている。しかしそうやって言い訳して褒める場を失っていては、茂木先生の言うところの「褒めのアスリート」にはいつまでたってもなることができないですよね。だからまず褒めることに慣れていないうちは本人が介在していない場でその人の成果や能力を褒めてみることから始めたらいいのかな、と思うんです。例えば書評をブログ上に書くということも褒めることに変わりはないわけで、それだと割と気軽にできる。身近な人に「あの人はすごい」という話をすることも十分効果がある用に思えます。

~つい人を貶してしまうのはなぜだろう?~
身近な人であれば褒めるのも簡単でしょうし、むしろ貶すことの方がよっぽど難しいと思われます。しかし相手が自分とはあまり関係のない人であれば貶しても自分にとって損害はないと思い、簡単にバッシングしてしまうことができてしまいます。特にマスコミなどは、誰かをバッシングすることによって損害を被ることはほとんど無いと考えているからあのように政治家や犯罪者をたたくことができるのでしょう。
また、自分の存在価値を顕示するのについ他人を貶してしまうことがよくあります。これは私の最近の経験談ですが、学振の提出書類で自分の研究の背景を書いていたとき、自分の研究のオリジナリティを際だたせるために、これまでに行われてきた研究の流れのどこかしらに欠点を見出す必要がありました。そこで私は前人の研究をほとんど真っ向から否定し、欠点を羅列した形で背景を書きあげました。その文章を教授に見てもらったところ、これまでの研究のよい点を列挙し、さらに自分の研究の良いところを付け足すような形に書き直すよう命令されてしまいました。
つまり自分を認めてほしいから、そして自分は傷つきたくないから適当な他人を叩くことによって存在価値を得ようとする。それが結局手っ取り早い手段と言うことなのでしょう。「他人を褒める→相手をいい気分にさせる→自分への見返りを待つ」というプロセスはあまりにも時間がかかるように思えて回りくどい。長期的な利益を考えたら間違いなく褒めた方が絶対得になるはず、ということはおそらく誰しも気づくことができると思うのですが、それをやらないのは自己顕示欲を即座に満たしたいという気持ちがあるからなのではないでしょうか。(たぶん人を貶す理由はそれだけではないと思いますが・・・)

~褒める力のトレーニング~
というわけで、褒める力を身につけるために具体的に何をすればよいか、PHP研究所『ほめ言葉ワークブック』の中に書かれていた実践法の中から自分がやろうとしていることをちょっと記録しておきます。
●イメージトレーニングをする
 暇な時間、例えば歩いている時に、ふと頭の中に浮かんだ人を褒めてみる。あるいはその人に感謝の言葉をかけるとしたらなんて言うかな~と妄想してみると意外に今まで気づかなかったその人の良さが発見できたりします。
●日常的にポジティブな言葉を使う
 ふだんからネガティブな言葉を多用していると褒めるときも無理に褒めようとしてしまうため、つい嫌みになったり褒めているつもりなのに相手を傷つけてしまったりしてしまうそうです。常日頃から前向きな言葉を使い、前向きな考え方をすることで褒めることへの後ろめたさを無くすことができるようです。
●未来と可能性にフォーカスする
 行動や成果がどんなに無様なものであったとしても、それを「改善の余地がある」という観点から未来志向的にポジティブに捉えることは可能なはずです。

適当に思い浮かんだことを並べただけなのでなんだかまとまりのない文章になってしまいました。しばらく「褒める」ということについて研究し、考えてみたいと思います。また考えがまとまったら書くことにいたします。

ちなみに10冊同時読みは私にとってさすがに無謀な挑戦でした。まずは3冊同時読みくらいからやり直したいと思います。

2008年5月14日水曜日

強者の論理

今日はゼミに出席しようと思っていたら朝から大降りの雨と芳しくない体調のせいで出る気をなくしたので朝から登校ならぬ投稿してまいます。

昨今のニュースを見ていて思います。
こんなのもしかしたら当たり前のことなのかもしれないしはたまた完全に的外れのことなのかもしれませんが、マスコミは「強者の論理」を軸に報道していることが非常に多いような気がします。

例えば道路特定財源化問題。
あれは一見すると自民党衆議院議員という「強者」が法案を押し通しているようにも見えます。
マスコミはこぞって、「道路族と呼ばれる人たちが国民全体の利益を考えず、無駄な道路建設に税金から費用を捻出しようというとしている」として、あたかも「弱者の国民」の味方“的”な立場から報道をしています。
しかし個人的には構図は逆のような気がします。
明らかにこの問題の本質は地方切捨てを是とするか否か、という部分にあります。
要は強者は「都市在住の国民」、弱者は「地方在住の国民」という構図なので、国民の大半を占める都市在住の国民としての立場から「採算の取れない道路は作るな」と言い切ることこそ強者の論理です。
採算の取れないことはやるな、という数字上の論理は極論を言えばボランティアを否定することと同じなのではないでしょうか。

まあこれは自分が農学部で培ってきた価値観からの主観なのですが、地方切捨てを断行していては農村の荒廃は進むばかりで、日本の食糧自給率の回復など到底無理です。
おそらくこういったマスコミの論理に踊らされている連中の中には食品安全の報道にも踊らされて、国産食品信仰をしている人らも多数いるんじゃないかと思います。
そのような人の形をした抜け殻どもに言いたい。
お前らが食っている飯は一体どこから運ばれてきてるのかわかってんのか!、と。

話がそれてしまいましたが、他にも強者の論理が働いていると感じるニュース(自分が興味あるもの)をあげておきます。
「地球温暖化+バイオエタノール」・・・絶対に強者アメリカの論理。経済維持のためのエネルギー源確保のための“問題”。
「いわゆるニート・フリーター問題」・・・既得権者による論理が働いている。求職者を年功序列制度の弊害でもってはじき出すのを今すぐやめるべき。外国人労働者の雇用促進を打ち出す前に派遣社員の能力見直しが必要。

やっぱり日本は国民主権じゃなくマスコミ主権なんでしょうか。

2008年5月1日木曜日

研究の目的とは

さて5月にも入り就職活動も終わりを迎える時期。
私は就職活動をほとんどしなかったので実感がわきませんが、
世の就活生は自己分析などして自分自身のアピールに精を出していたことなのでしょう。
私は進学し研究を続けることに宿命と使命を感じていたので、
就職活動もそこそこに進学することを決意しました。

もちろん研究活動そのものが「自分のやりたいこと」であるという部分には確信を持っています。
ただ研究内容自体が本当に自分の一番やりたいことなのかどうか、
という部分にはまだ確信を持つことが出来ていません。

現在自分が行っている研究は「農業の多面的機能」、
平たく言えば「農地が持っている、農業生産以外の面における外部経済性」
の中のひとつである「洪水防止機能」についてであり、
この研究は研究室の先輩がかつて行っていたテーマでありました。

この研究の究極の目的は洪水を予測し未然に防ぐ、といったところにあるのですが、
これはホットな話題でもなければ自分が実際に洪水被害に直面したわけでもないので、
ぶっちゃけて言うと目的達成に対する意義ははっきりと自覚できていない現状です。
そもそも国内での洪水被害がニュースで大きく取り上げられることは近頃ほとんどないように思えるので、
洪水を未然に防ぐ手立てが解明されたとして社会的に本当に役に立つのか疑問が残ります。

ではこの研究自体にどうして価値があるのか、ということについて考えてみたのですが、
恐らくそれは「社会の要請」が背後にあるからだ、という結論に達しました。
たとえば地球温暖化問題だって、もし世間であれだけ騒がれていなければ
「地球温暖化が問題である」ということを前提とした近年の研究熱というものは生まれ得なかったように思います。
ちなみに言っておきますと、私は地球温暖化は一時のブームに過ぎないと確信しています。
(参考文献『ほんとうの環境問題』『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』)

洪水緩和も似たようなものです。
実際にこの研究の意義も「誰かがそれを問題視したから」という前提が多かれ少なかれ背後に潜んでいるように思えます。
そう考えると、「自分は見えないものによって研究をさせられている」という感覚を拭い去ることはできず、
自分のやりたいことを主体的にやっているという自信を喪失しかねません。
ただ、研究の意義の重心を「新たな知の創造」という方向にシフトすると、
とたんに研究することの意味が現れて、「自分はやりたいことをやっている」という実感が持てるような気がします。

従って今は、目的ありきの研究ではなく、
単にその過程そのものや、最終的に得られる「理」を楽しむための研究をやっているつもりです。
ただ自分は最終的には「食糧問題」に結びつくような研究をしたいとも思っているので
将来的に何をしようかいろいろと模索している段階ですが、
今は新たなシステムや素材の開発のための研究とは違った醍醐味を味わえています。

2008年4月18日金曜日

今週はとにかく集中力に欠けた毎日でした。
フィールドに一度赴き、修士論文に非常に参考になりそうな論文を発見しました。

最近自分が無気力人間であることに嫌気がさし、どうにかこれを改善したいという気になってきました。
そこで今日の帰り道、私は身の回りのものや人に対して心の中で感謝することにしてみました。
するとまわりの人が自分に良い影響を与えてくれていることに改めて気づくことができました。
周りのひとが輝いて見えるのは自分が成長している証拠。
また新たな自分ルールができました。

あと人を心の中で褒めるというのも訓練としてやっていこうかと思います。
「すぐに使える ほめ言葉ワークブック」によると、
他人を褒められる人はボキャブラリーも豊富、ということらしいです。

2008年4月14日月曜日

今日は一週間ぶりに、大学時代にやっていた柔道部に顔を出してきました。
OBになって1年半がたちますが、気力体力ともにだいぶ衰えたと感じます。
現役部員の練習に対する妥協のない姿勢を見て、多大な刺激を受けました。

昨日の続き。
他人が自分を嫌っているように見えるのは自分が他人を嫌っているから。
かくのごとく、他人を良く見られる人というのは他人からも良く見られる人ということであり、
自分の目の前の光景というのはいわば自分自身を投影する鏡のようなものということなのでしょう。

ちなみに元ネタはARIA the Natural 第6話です。

2008年4月13日日曜日

というわけで今日は休日出勤してきました。
案の定研究室には私一人だったわけですが、あんまし集中できませんでした。
とはいえ、論文1.5本と教科書30ページ読めたのでまあ行った甲斐はあります。
来週の発表に向けて本気モード出してがんばりたいと思います。

最近思うこと。
自分が一番だと自惚れて見えるのは自分が努力していない証拠。
他人が輝いて見えるのは自分が成長している証拠。

2008年4月12日土曜日

ようやく今週、研究室のホームページをリニューアルすることが出来ました。
相変わらず仕事が遅いですが、一仕事なし得たという達成感は感じています。

さて今年は修士の研究を本格的に行わなくてはなりません。
今思えば昨年度はサボってばかりでした。
面倒くさいことを先送りにしていること、
具体的に研究目標をしっかり見据えられていないことにようやく気づきました。
そしてこういうことを自覚するのはいつも寝る前という。
朝起きたときにそういう自覚をもてないもんかと思います。

とりあえず8月の学会で恥をかかないように勉強していきたいと思います。