2010年11月13日土曜日

なんでみんな質問しないのか

ではぼちぼちブログ更新していきますか。

ホントは「縦社会の風通しの悪さが研究者の視野を狭くする」ってタイトルで記事を書こうと思ったけど
感情を抑えて構造を整えた格調高い表現を繰り出す能力がまだないと自覚したので、もう言いたいことをテキトーに言ってしまうことにします。

最近、研究室のゼミや大学院の特別講義で常に思うことがある。
周りの学生、みんなおとなしすぎる。
研究発表でも講義でもとにかく質問が出ない。
ゼミ・講義に出席してもただ黙ーって席に座ってるだけの人間のなんと多いことか。
それって、出席してる意味があるの?ほんとに何も疑問に思ったりしなかったの?理解できない部分はなかったの?と疑問に思う。
もし聴講者の前で発言しにくいんだったらゼミ後・講義後に直接聴きに行けばいい。
そうした姿勢がないということは、この人は興味を持ってないんだなーとしか思えない。

あと質問が出たとしてもその人の研究に直に関わることとか経験あることをベースに聞いてることが多いように思う。
こんなとき、みんな視野が狭いなーと思ってしまう。
どうして純粋な知的好奇心が表に現れないのか。
私はその原因が教員と学生の上下関係にあるように思うんです。

「教員=知ってる人、経験値のある人」
という認識を強く持ってしまうと自分の疑問やアイディアは
教員にとっては当たり前のこととして処理される可能性が高いというのを恐れてしまう。
そうするとみんなの時間を借りて自分の無知を晒すのはちょっと腰が引けてしまうのでしょう。
でも逆にいうと、無知を晒すことは自分にとっては無知を自覚するチャンス。
いわゆる聞くは一時の恥ってやつ。
まあ大学院生を何年かやってると分かるけど、
教員も万能者じゃないし頭の回転で言えば若者の方が有利なわけだから
学生が教員のキャパを超えることも大いに有り得る。
(ちなみに私は教員の指示の範疇を超える自信を持てるかどうかが院に進学するかどうかのバロメータだと思っています)
だから「教員と大学院生は対等な立場」だと考えたほうがいろいろと風通しがよくなって活発な議論ができるだろうし、
その立場についてM1入学の時点で摺り込んでおけばいいんだろうと思う。
教員は認めないかもしれないけど、大学院生にはそれぐらいの権利があって当然でしょ。

というわけで特に大学院生はもっと自分勝手に、貪欲に聞きたいこと聞けばいいのにと思うんだよね。
まあもっともやりすぎるとこっちとしてもなんかムカつくけどそれはさておき。